34 ほうそうの話

34 ほうそうの話

 昔、はやりやまいの一つに「ほうそう」(天然痘)がありました。ほうそうは死亡率の高い伝染病で、種痘が一般に行なわれ始めた明治の初年までは一度流行すると、子供を持つ親はたいそう心配でした。

 高い熱が三日位続き、ついで発疹が出てきます。それがやがてくずれてデコボコのあばたが顔に残るという大変困った病気です。
 治療の方法もなく、医者にも手のほどこしようがないのですから、患者が出ると、神社へお百度まいりをしたり、瘡守稲荷へ祈願をしたり、又ほうそう日待ちを行なったりして快復を願うより仕方がありませんでした。

 ほうそうの発疹は大変かゆくて顔をかきむしり肉までむしり取ってしまう程だったそうです。かゆみをやわらげるためか「あわがら」や「あわぬか」を床に敷いて、そこへ寝かせておいたという話です。
 幸いにもほうそうが治ると、「ささ湯」を浴びせて身を清めました。
 「あばた」は手や足には出来ず、顔にだけ出来るものですから、治ってもその跡が残って、気の毒にも年頃になった娘さん等は、お嫁入りの話にもさしつかえるようでした。

 大正に入るとどの子供も種痘をするようになり、ほうそうの流行はほとんど見られなくなりました。
 生後半年位の赤ちゃんに小学校で「ほうそううえ」が行なわれ、この日ばかりは子供の母親は晴れて外出できるので楽しい日でもありました。普段は、機織りや、農作業に追われる若い母親が、家の人たちに気がねをすることもなく出かけることができたからです。こざっぱりした着物に着替えて出かけていったそうです。赤ちゃんには気の毒ですが、種痘がお母さんのほね休めに一役買ったというところでしょうか。
(東大和のよもやまばなしp76~77)

指田日誌

天保11年(1840)
一月
 十七日東隣庖瘡日待。廿二日喜代蔵一女庖瘡にて死。忠蔵二男庖瘡にて死。
二月
 十三日半蔵女庖瘡にて死。廿五日向勝右衛門女庖瘡の湯ながし。廿七日半次郎児、向勝右衛門女庖瘡にて死
す。
三月
 三日金十郎嫡女庖瘡湯ながし。五日清左衛門児庖瘡湯流し、権右衛門児庖瘡にて死。六日市郎左衛門末女萢
瘡湯流し。七日清左衛門児痕瘡にて死。十三日夜向勝右衛門児庖瘡後死。十六日市左衛門孫庖瘡後死。十七日
半次郎小児庖瘡湯かけ。十三日金十郎末女庖瘡湯ながし、弥次郎小児疸瘡後不快により千度参り。廿七日内の
二女琴疱瘡湯流し。廿八日箱根ケ崎金右衛門妻、庖瘡見舞に来る。
四月
 四日勘七弟平八、萩ノ尾宗庵旧宅に借家し、小児庖瘡を患死す。九日久八児庖瘡にて死す。廿八日琴庖瘡祝
ひの赤飯を配る、家数四十三軒。
五月
 一日伊之介一女、庖瘡難症により観音経を読む。五日金十郎末女庖瘡後死。十日伊之介一女、二才にして庖
瘡を患ひ死す。十一日奈良橋七郎兵衛児庖瘡にて死す。十七日泰次郎二女庖瘡湯ながし。廿一日ハシバ常五郎
男五才痕瘡にて死。廿三日泰次郎一女庖瘡難症により千垢離・山口千度参り。廿四日泰次郎一女四才にして庖
瘡を患ひ死。廿六日四郎兵衛三男庖瘡湯流し。
六月
 五日東隣哲蔵女庖瘡湯流し。九日六兵衛小児庖瘡にて死、文左衛門末子三才庖瘡にて死。十八日文左衛門弟
金蔵嫡子五才にして庖瘡を患ひ死。
七月
 廿八日中藤入金兵衛子息庖瘡湯掛。

安政3年(1856)

一月
 十四日北埜栗原君御二男来臨あり、当九才の季弟発熱甚しく大病の容態。羽村義助老母、八十一才にて病死
の告。十五日北埜児童庖瘡の由。十五日山王前老母病死。
三月
 十一日中藤入雄月妻、廿六才にて病死。廿五日羽村小児種痘により見舞。
四月
 八日刀称五郎妻疫。
五月
 三日勘右衛門小児二人痘瘡。四日横田鍛冶小児痘瘡死。十二日東隣才次郎病気重キ。十七日羽村小児不快に
付、妻を見舞しむ。喜八小児・由五郎小児ササ湯。十八日東隣才次郎五十才病死。
六月
 三日辻小児痘。八日辻昌蔵小児痘死。十七日源太小児二人庖瘡棚。廿七日源太二人の小児痘瘡ササ湯、半次
郎末子庖瘡を患て死。廿九日勘吉小児庖瘡棚。三十日刀称蔵小児庖瘡棚。
七月
 二日源太小児、庖瘡難症にて十一日にして死す。夕方平左衛門急病。七日刀称蔵小児・勘吉小児ササ湯。十
五日桃太郎小児庖瘡棚。十七日辰五郎小児庖瘡棚。十九日勘吉小児庖瘡棚。廿一日昨夜、刀称蔵小児死。桃太
郎小児死。新介ササ湯。
八月
 一日市郎左衛門妻、今朝借地にて病死。五日藤重郎弟得三郎病死。十日四郎兵衛母、金毘羅参詣に来リ急
病。十三日桃太郎小児千垢離・山口千度、夜死す。廿日七右衛門妻猪之介母病死。廿二日六兵衛病気。廿三日
六兵衛病死。十五日油屋八太郎母痢病、山口千度参リ。十七日喜代蔵二男伝蔵病死。
 二八日村方、七月中より痢疾多ク死去多き故、村方談しの上、痢病邪気送り致し度を申により、
予・常宝院両人にて疫神送の如く、村中予か宅に寄集り、異形の出立人々思々事を致し丸山台に送る、此日酒大樽一
斗樽ニテ足りず

九月
 廿一日 先月廿八日、村方に痢疾(りしつ)多く病死の老多く、就中橋場組計(ばかり)にて拾人老少の病死により、痢病の邪気送り致し〈中略〉丸山台に送る所に、其節原山弥次郎と申者、小川村に奉公致しけるが、馬を引、杉皮を附て暮方邪気送りの輿(こし)の所に至る時、向より車来りければ、馬の驚くべきを恐れ、かたはらに馬を引込けるに輿の中へ這入ける故、其時自分の心ろ億し身の毛のよだつ様に思はれける所、途中より発熱し、其夜、痢病となり家内に帰り薬用致し
ける内、近所二人小児痢病に付、又々頼みにより常宝院・予、両人にて組合の者計(ばかり)にて丸山台に送る。
 以下略


九月
 四日観音堂徳次郎病死。五日喜代蔵三男六才、痢ヲ患テ死ス。廿一日原山弥次郎発熱シ、痢病。近所二人小
児痢病。廿二日勘右衛門妻病死、廿四日油屋八太郎母病死。
十月十日中藤入弥右衛門孫井三郎右衛門娘疫ニヨリ、常宝院・予立合、疫邪ヲクリ。十一日中村兼松弟疫祈祷。
十六日中藤寺下ノ慶蔵祖母病死。夜、庄右衛門病死。廿四日中村兼松弟疫邪送リ。廿八日荒井村又右衛門孫病
気に付、来て祈祷。
十一月八日杢左衛門妻・半次郎妻、病気祈祷。
十二月二日七兵衛二男清心坊病死。